崇徳上皇が崩御した場所に「柳田」と言う石碑が建てられています。崇徳上皇の崩御については、様々な説が入り混じっていますが、地元ではこの説が有力で讃州府誌にも長寛ニ年八月二条帝陰に讃の士人に命じ弑せしめたりと記されています。
〜村人から刺客の知らせを聞いた上皇は綾川方面へ逃げました。時代劇でも、川沿いに柳が立ち並んでいますが、当時の綾川沿いにも柳が立ち並んでいて、上皇はその根元にあるほこらに隠れました。しかし、川に上皇の衣が映り刺客に見つかり、この場所で崩御せられました。
以来、この地では柳が育たなくなり、又刺客が栗毛の馬にまたがり紫の手綱だったことから、一帯「紫の着衣」は禁色とされました。※昔から紫色を好む人は皇族の血筋だとか? |